戦レク@奏楽堂
- 2013.11.16 Saturday
- 22:48
いくら生誕100年とはいえ、2日連続、年4回も「戦レク」を聴く(聴ける)とは!
ここ数年、藝大フィルハーモア合唱定期はよほどのことがなければ欠かさず通っている、楽しみにしている行事だが、今年の演目が戦レクとは最近まで知らなかった。というわけで、大阪から帰るその足で、奏楽堂に向かった。
指揮は札響でも振った尾高さん、万全だ。合唱も藝大生なので大いに本領を発揮してくれるだろう。気になったのはソリストだ。学内選抜か教授の推薦かわからないが、いずれにしても藝大のカンバンを背負って公演に臨むのだから、特に優秀な人材だろう。しかし、果たしてブリテンの大曲を歌えるだけの技術及び精神性を、今の時点で持っているかはわからない。言い換えればどんな優秀者が歌っても荷が重すぎるのではないか?という懸念だ。歌う技術以上に人間的な深みが求められるのだから...
ほどなく演奏が始まった。不安げな音の後に続く、requiem requiem requiem aeternam...いい響きだ。少年合唱に続いて注目のテノールソロが始まった。正直「うーん...」と思った。緊張もあるだろうが、言葉の表情が硬い。言葉の意味が表現できていない。もう一段も二段も踏み込んで言葉が立つように表現しないと、作品の本質が伝わってこないぞー
しかし!である。作品のカギを握る男性陣、緊張もほぐれてきたのか、次第に望みうる歌唱に変わってきた。昨日は大いに気になった offertoriumの「one by one」も隙間のないくらい二人の息がピタリとはまり、フィニッシュも完璧。見事だ!ソプラノの歌いっぷりも堂々としたもので、すでに何かしらのオーラさえ感じられる。舞台裏の少年合唱も随所で地上に降り注ぐ歌声を聴かせてくれる。
しかし敢えていえば、指揮の尾高さん、かなり気を使っていたせいか、札響を振った時のような爆発力はいまひとつだったような気がする。
終わってみればあっという間に過ぎ去ったとき。とても学生が演奏したとは思えないような充実ぶり。合唱は言うに及ばず、懸念していたソリストも想像を遙かに上回る出来。今日のような演奏、優秀な学生と分厚い陣容を誇る藝大でなければ成し得ないことだ。底力を垣間見た思いだ。
カーテンコールが終わった後、シナリオどおりかアドリブなのか?尾高さんがマイクを握って話しはじめた。
「終わった今だから言うが、この難曲のソロを学生が歌うのはちょっと心配だった。しかし、見事に歌いきってくれた。スゴイことです。藝大の力も凄い。今日の演奏でブリテンの思いが少しでも伝えられれば」
尾高さんの率直な感想だろうが、マエストロ尾高にこうまで言わしめた演奏会だった。
聴き終わって考えた。
「レクイエム」のある意味で頂点をなすヴェルディの作品は文豪の死を悼んで作曲された。この「戦争レクイエム」も死を悼む気持ちは同じだが、「戦争によって死に至った者の死を悼み、平和を願う」と、より作品の主眼とするところが明確だ。
古来から「争い・諍い」は人間の営みとともにあった。が、残念ながら、現代においても絶えず存在し続け、ますます非人道的な性格も増している「戦争」。それに対してレクイエムという形態をとって提示している作品。これほど同時代的なレクイエムはあるまい。20世紀という時代の傑作であり、今後も機会あるごとに繰り返し演奏されるべき性格をもった作品である。
会場は満員の盛況(いままで何回か通ったがこれほど満員ではなかった)。学校関係者だから若い人も多いし、この作品を初めて聴く人も少なくないはずだ。そして演奏者も若い。
今日の演奏会に集った若者がどういう感想を持ったかは正直わからない。しかし、これからの時代を担う若者にブリテンの傑作を通じて何かを感じてもらう機会になったことは事実だろう。その面からみても大いに意義ある演奏会だった。
ふと、手元にあるブリテン指揮のCDの録音データに目がいった。「録音 1963年1月 ロンドン、キングズウェイ・ホール」
奇しくも、ブリテン自ら指揮し録音した年から数えて、今年は50年目にあたる。
〈データ〉
藝大フィルハーモニア合唱定期演奏会
2012.11.16(土) 18:30
東京藝術大学奏楽堂
ブリテン:戦争レクイエム
ソプラノ:徳山 奈奈
テノール:佐藤 直幸
バリトン:堺 裕馬
指揮:尾高 忠明
管弦楽:藝大フィルハーモニア
合唱:東京藝術大学音楽学部声楽科学生
児童合唱:東京少年少女合唱隊
【料金】 全席自由 2,000円
P.S.
これから本格的な「第九」シーズン。CD評が気になって、ケーゲル指揮、ライプチィヒ放送交響楽団の1987年ライブ盤を聴いてみた。これがなんとも幸せな気分になる演奏。シラーの詩とベートーヴェンの意図するところを忠実に再現したような、本来の第九の演奏ってこうなのでは?と思える演奏だ。詩の意味と音楽の表現が完全に一致して、頭の中に光景を思い描ける内容。もちろん好き嫌いはあるだろうが、第九=必死に歌うから感動、といった型にはまってしまっている方には特にお勧め。極端に言えば、日本でのこれまでの第九の歌い方・聴き方を根底から問い直す姿がそこにはある。
ここ数年、藝大フィルハーモア合唱定期はよほどのことがなければ欠かさず通っている、楽しみにしている行事だが、今年の演目が戦レクとは最近まで知らなかった。というわけで、大阪から帰るその足で、奏楽堂に向かった。
指揮は札響でも振った尾高さん、万全だ。合唱も藝大生なので大いに本領を発揮してくれるだろう。気になったのはソリストだ。学内選抜か教授の推薦かわからないが、いずれにしても藝大のカンバンを背負って公演に臨むのだから、特に優秀な人材だろう。しかし、果たしてブリテンの大曲を歌えるだけの技術及び精神性を、今の時点で持っているかはわからない。言い換えればどんな優秀者が歌っても荷が重すぎるのではないか?という懸念だ。歌う技術以上に人間的な深みが求められるのだから...
ほどなく演奏が始まった。不安げな音の後に続く、requiem requiem requiem aeternam...いい響きだ。少年合唱に続いて注目のテノールソロが始まった。正直「うーん...」と思った。緊張もあるだろうが、言葉の表情が硬い。言葉の意味が表現できていない。もう一段も二段も踏み込んで言葉が立つように表現しないと、作品の本質が伝わってこないぞー
しかし!である。作品のカギを握る男性陣、緊張もほぐれてきたのか、次第に望みうる歌唱に変わってきた。昨日は大いに気になった offertoriumの「one by one」も隙間のないくらい二人の息がピタリとはまり、フィニッシュも完璧。見事だ!ソプラノの歌いっぷりも堂々としたもので、すでに何かしらのオーラさえ感じられる。舞台裏の少年合唱も随所で地上に降り注ぐ歌声を聴かせてくれる。
しかし敢えていえば、指揮の尾高さん、かなり気を使っていたせいか、札響を振った時のような爆発力はいまひとつだったような気がする。
終わってみればあっという間に過ぎ去ったとき。とても学生が演奏したとは思えないような充実ぶり。合唱は言うに及ばず、懸念していたソリストも想像を遙かに上回る出来。今日のような演奏、優秀な学生と分厚い陣容を誇る藝大でなければ成し得ないことだ。底力を垣間見た思いだ。
カーテンコールが終わった後、シナリオどおりかアドリブなのか?尾高さんがマイクを握って話しはじめた。
「終わった今だから言うが、この難曲のソロを学生が歌うのはちょっと心配だった。しかし、見事に歌いきってくれた。スゴイことです。藝大の力も凄い。今日の演奏でブリテンの思いが少しでも伝えられれば」
尾高さんの率直な感想だろうが、マエストロ尾高にこうまで言わしめた演奏会だった。
聴き終わって考えた。
「レクイエム」のある意味で頂点をなすヴェルディの作品は文豪の死を悼んで作曲された。この「戦争レクイエム」も死を悼む気持ちは同じだが、「戦争によって死に至った者の死を悼み、平和を願う」と、より作品の主眼とするところが明確だ。
古来から「争い・諍い」は人間の営みとともにあった。が、残念ながら、現代においても絶えず存在し続け、ますます非人道的な性格も増している「戦争」。それに対してレクイエムという形態をとって提示している作品。これほど同時代的なレクイエムはあるまい。20世紀という時代の傑作であり、今後も機会あるごとに繰り返し演奏されるべき性格をもった作品である。
会場は満員の盛況(いままで何回か通ったがこれほど満員ではなかった)。学校関係者だから若い人も多いし、この作品を初めて聴く人も少なくないはずだ。そして演奏者も若い。
今日の演奏会に集った若者がどういう感想を持ったかは正直わからない。しかし、これからの時代を担う若者にブリテンの傑作を通じて何かを感じてもらう機会になったことは事実だろう。その面からみても大いに意義ある演奏会だった。
ふと、手元にあるブリテン指揮のCDの録音データに目がいった。「録音 1963年1月 ロンドン、キングズウェイ・ホール」
奇しくも、ブリテン自ら指揮し録音した年から数えて、今年は50年目にあたる。
〈データ〉
藝大フィルハーモニア合唱定期演奏会
2012.11.16(土) 18:30
東京藝術大学奏楽堂
ブリテン:戦争レクイエム
ソプラノ:徳山 奈奈
テノール:佐藤 直幸
バリトン:堺 裕馬
指揮:尾高 忠明
管弦楽:藝大フィルハーモニア
合唱:東京藝術大学音楽学部声楽科学生
児童合唱:東京少年少女合唱隊
【料金】 全席自由 2,000円
P.S.
これから本格的な「第九」シーズン。CD評が気になって、ケーゲル指揮、ライプチィヒ放送交響楽団の1987年ライブ盤を聴いてみた。これがなんとも幸せな気分になる演奏。シラーの詩とベートーヴェンの意図するところを忠実に再現したような、本来の第九の演奏ってこうなのでは?と思える演奏だ。詩の意味と音楽の表現が完全に一致して、頭の中に光景を思い描ける内容。もちろん好き嫌いはあるだろうが、第九=必死に歌うから感動、といった型にはまってしまっている方には特にお勧め。極端に言えば、日本でのこれまでの第九の歌い方・聴き方を根底から問い直す姿がそこにはある。